中学二年のとき
「フランク・ロイド・ライトに捧げる歌」
(So Long, Frank Loyd Wright)
という歌を覚えた。 私が建築家をめざすきっかけとなった歌である。

 高校二年のとき、雑誌 日本版 " PLAYBOY " の創刊号にフランク・ロイド・ライトの特集があった。 記事のタイトルは「悲劇太りの老人 フランク・ロイド・ライトの生涯」とあったと思う。
私は「建築家」に魅かれた。 彼の作品より、波乱万丈ともいえるその生き方に魅かれた。

建築家 清家清

 1977年、私は大学生になった。  私が入学した多摩美術大学建築科は、清家先生と縁が深い。
 大学の創立は1930年代とされているが、建築科が設けられたのは1970年ころだった。
 初代建築科長を務めた田中一(たなか はじめ)教授は、清家先生と美校(現東京芸大)の同窓生とうかがった。

 私の入学当時、清家先生は東京工業大学建築学科に「清家研究室」を構えておられ、多摩美大建築科の教官には清家研究室のOBやOG、つまり清家さんの門下生が多かった。
(大学の教官ではないが、建築家 林昌二(1928 - 2011)も清家スクールの門下生だった。 林昌二さんとは学生時代に一度だけお目にかかったことがあるが、これはほろ苦い思い出であった。)

 一年生のときの設計製図課題に「千が滝の家」というのがあって、これは清家先生が設計した実在する別荘(木造平屋建て)の設計図をトレース(模写)するものであった。
 模写はケント紙に烏口を用いて行なう。精密な図面を模写するため、ひとたび烏口のインクがケント紙の上に垂れるようなことがあるとすべてやり直しとなり、緊張の連続だった。また、構造設計図に基づき別荘の骨格にあたる「軸組み」の模型も造らされた。

 さらに「透視図=パース」といって完成予想図にあたるイラストを制作する。 実存する建物とはいえ、現地を訪れたわけでもなく、写真もない中で 設計図面、すなわち平面図、立面図、断面図などをたよりにどこまで忠実に表現することができるか、その能力が試されるのだ。

 パースというのは「建物デッサン=写生」に近い表現手法という感があったが、そうではなく、 「遠近法」をきちんとした幾何学的理論に基づいて確立させた精緻な表現手法であることを知った。

 「千が滝の家」が軽井沢のどこかに建っていることは課題説明書に書かれただけで、学生たちはめいめいの想像力で周囲の環境まで表現することを求められたのである。

 私はその透視図の点景として、当時慕っていた女性が「千が滝の家」のテラスから遠くの山を望んでいる姿をちいさく描いた。
 絵画の点景に自我の憧憬を託すことは洋の東西を問わず、多くの画家が試みてきたことである。

 建築家 宮脇壇(みやわき まゆみ 1936 - 1998)も学生時代に課題で制作した透視図に恋人の後姿を潜ませたことがあったと専門誌「新建築」宮脇壇特集号の誌上で語っていた。

 宮脇さんは芸大出身で、やはり清家スクールの門下生を自任していた。 宮脇さんが学生時代に私と同じことをやっていたことを知って「しまった、先を越された」と思った。

建築家 山下泉さんとの出会い

 建築の授業は「理論」と「実技」で構成されていた。 「実技」とは、「設計課題」があたえられ、学生は学んだ「理論」をもとに「設計・製図」で応える。 この繰り返しを4年(私の場合は5年)かけて卒業するのである。

 私は「理論」より「実技」が好きだった。 だから私の設計には「基礎」が欠けていた。 このため「1年生」を二度繰り返した。 卒業に5年かかった理由である。

 二度目の一年生となった1978年、「ワンルーム住居」という課題があたえられた。 「ワンルーム住居」というのは清家先生の「私の家」に由来する。

 「ワンルーム住居」の課題が与えられたのは「千が滝の家」の直後だった。
 清家先生のワンルーム住居「私の家」とは文字通り「一室空間」の家である。 寝室はもちろん、トイレにもドアを設けない。
 居間と寝室は家具の配置やカーテンでゆるやかに仕切る、トイレは中が覗かれないように衛生器具の姿が居間から見たときに「死角」に収まるように配置を工夫する、というものだ。
「一室空間」をコンセプトにして学生たちそれぞれの「私の家」を設計させるのが課題の意図であった。

 この課題の担当教官は、やはり清家さんの薫陶を受けたひとり、山下泉(やました いずみ)先生。 この課題が私にとって「設計の原点」となった。
 シンプル、コンパクトであることがその後の私の設計活動の基準となった。 課題の与条件に「床面積65u」とあり、この広さが私の家づくりにおける「気持ちよく過ごせる家」の基準となった。

設計課題の作品を建てる

 学生時代の作品は「アンビルド建築」といって実際に建てられることはない。 しかし私がこの時に取り組んだ課題「ワンルーム住居」の成果品は、大学を卒業して設計事務所に就職したあとも、将来「私の家」として実現にむけて構想をあたため続けることになった。

 1982年3月。
 卒業を控えた頃、私は建築科の仲間を誘って念願のニューヨークへ卒業記念旅行にでかけた。 建築家・ライトの代表作である「グッゲンハイム美術館」を訪ねた。
 思えば高校二年の夏、日本版Playboy創刊号を手にしたときから、私は「自由の国アメリカ」をめざすようになった。 そして誌上でFlank Loyd Wright の生涯を知ってから私は建築を志した。
 まもなくその日がやってくる。 1982年は「少年の日」に終わりを告げた年として記憶されることになった。

建築と私の履歴 1977-82年

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